Raining




 低く唸る機械音が耳に響く。
 薄暗い室内を照らすのは、壁の八割を埋め尽くす大型のモニターの光だけだ。照明の類はない。
 その中で、ケロロは小さく声を漏らした。

「……っ」

 酷く居心地の悪い空間の中、唯一の生活ポイントである黄色い椅子。そこにもたれるように座らされたケロロの上で、クルルは笑った。ケロロは思わず目を瞑る。

「ここだけは、いつもやる気満々だなぁ、隊長?」

 罵るクルルの舌が、ケロロの頬をなぞる。悪寒に肩が跳ねた。
 擦り上げられる度に質量を増す自身は、ケロロの制御を離れ、完全にクルルの支配下にあった。中心から発された熱は、もはや身体の隅々まで侵食している。

「なぁ、欲しいんだろう? こんな状態で、まだ意地を張るかい?」

 耳元から脳に滲まされてゆく誘惑。しかし、それでもケロロの首は横に振られた。

「洗濯物、干しっぱなしなのであります」
「そんなモン、放っておけよ」
「午後から雨降るって、天気予報で言ってたっしょ」
「濡らしときゃいいんじゃねぇの」
「夏美殿に殺されるのは我輩であります。だから、今は嫌」

 大きな目を艶に濡らしながらも、ケロロははっきりと拒絶の意思を表示した。
 クルルは暫しその瞳を見つめ、やがて仕方がなさげに嘆息した。

「……今は、だな?」

 クルルの問いに、ケロロは小さく頷く。

「そ、今は」
「なら、とっとと取り込んで来いよ。気のねぇアンタを抱いても、面白くねぇからな」
「恩に着るであります」

 クルルは軽く敬礼をよこすケロロの唇に軽くキスし、一度唇を舐めて離れた。
 すぐに戻ると言い残し、ケロロは椅子を降りる。縦横無尽に絡まるコードに躓きそうになりながら、クルルズラボを後にした。

「……暇だな」

 一人残されたクルルはその背中を見送ってから、暇つぶしがてら端末の電源を入れた。










 空は既にどんよりと重く、今にも雨粒が落ちてきそうだ。
 ケロロは両手いっぱいに抱えた洗濯物をリビングに乱雑に投げ入れる。まだ僅かに生乾きだが、この程度なら部屋に干しておけばすぐに乾く。

「部屋干しって、臭い付くからホントはやなんだよね〜」

 洗濯物はお日様の匂いがしてこそ。それがケロロの持論ではあるが、仕方がない。天候管理のされていない地球では、雨天とはイレギュラーであって当たり前なのだ。
 かすかに雷の音が届く。予想より強い雨が来そうだ。ケロロは大急ぎで残りの洗濯物をリビングへと移動した。
 数度の往復でようやく取り込み終わった直後、ポツリと一粒の水滴がケロロの頬に当たった。とうとう耐え切れなくなった雨が落ちてきたらしい。

「ふぅう、間一髪。危なかったであります」

 しとしととまだおとなしさを見せる雨は、すぐにも激しさを増すだろう。冬樹と夏美が学校から帰る頃には、相当な本降りになっていると予想される。

「お風呂を沸かしておいたほうがいいでありますな」

 夏美への点数稼ぎのチャンスは見逃さない。気を利かせたところを見せれば、掃除当番を一回ほど免除してもらえるかもしれない。
 くるりと踵を返した先、目に入った赤いテントに、ケロロは足を止めた。
 強くなり始めた雨がビニールに当たり、ぱらぱらと音を立てている。僅かに開いた入り口から、ひょこりとギロロが顔を見せた。
 無意識に見入っていたため、視線がかち合う。ギロロは少し眉を顰めてから、空を見上げた。

「降ってきたのか」
「え? ああ、うん」
「そうか」

 それだけ言って、ギロロは再びテントの中に姿を隠した。
 短い用件のみの会話に、ケロロは少しムッとする。
 ケロロはテントの入り口をめくり上げて、狭い空間に身体を潜り込ませた。

「なんだ、貴様。狭い、出て行け」

 相変わらず武器と弾薬の積み上がったテント内には、珍しくギロロ一人しか居なかった。そのためか、いつもよりも大型の大砲を磨いていた。
 ケロロは濡れる足を厭って、完全にテント内に入り込む。ギロロの顔がさらに不快に歪んだ。

「雨降ってきたってのに、またテントに戻るお前がいけないんでしょ」
「俺の勝手だろう」
「いつもは日向家に避難するくせに」
「浸水しないようにシールドを強化した」

 いいから出て行けと短く言われ、ケロロは唇を噛む。

「猫は入れるくせに」
「あいつは小さいだろう……なんだ貴様、今日はやけに絡むな」

 ギロロが大砲からケロロに視線を移すと、ケロロは視線が合うのを避けるように目を伏せた。
 雨足が強くなってきた。ビニールテントを叩く雨粒が、激しい音を立てる。

「……前にもあったな」

 不意にギロロが呟いて、ケロロは視線を上げる。少し考えて、訓練生時代の演習のことだと思い至った。

 あの日も、雨が降っていた。
 ケロン軍は様々な環境の植民星を所持している。様々な環境下に適応するための訓練には、もってこいだ。自然災害中の部隊孤立を想定した、年中雨天の星で数グループに分かれてのサバイバル演習だったのを覚えている。
 リーダーであるケロロの状況判断が甘かったのが、一番の敗因だった。拙攻として先行していたギロロが、対戦グループの仕掛けた罠に見事に嵌り、崖下に転落した。ケロロはリーダーの責務も忘れ、思わず自分も飛び降りて、結局大敗した。あの年の成績がDを下ったのは、間違いなくこの演習での失敗が響いていたのだろう。
 救助が来たのはそれから半日後で、二人は一晩中、一枚のビニールシートの下で雨を凌いだ。
 今だ耳に残る、豪雨の夜。

 ざーざーざー。
 ばらばらばら。
 音はビニールを隔てた向こう、少し遠く響くように聞こえる。テントの中は、まるで世界から切り出したかのように隔離された空間に思えた。

「……」

 ケロロは目を閉じて耳をそばだてる。ギロロの僅かな身じろぎでさえ、容易に拾うことができるほどに、静かだった。
 前にもあったのだ、こんなことが。
 ケロロはその先を思い出して、少し笑った。それに気付いたのか、ギロロが僅かに肩を張った。
 ゆっくりと、本当にゆっくりとケロロは顔を上げた。

「……ギロロ」

 低い声で呼ぶ。ギロロの応えはない。

「ギロロ」

 今度は請うような色が帯びた。ギロロは暫く黙って、やがて息を落とした。そして磨いていた大砲を脇に置いて、ケロロに視線を寄越す。
 黒曜の瞳が交差する。正面から見据えあうのは、随分と久しぶりのことだ。
 雨音が、一層激しくなってきた。
 戦場における特殊な精神状態は、兵士たちをほんの少し狂わせる。人肌を、恋しくさせる。
 それを精神学上では吊橋効果と呼ぶのだけれど、その一時感じた感情が間違いであると、誰が言い切れるのだろうか。
 地球は戦場と呼ぶにはあまりに平和な場所だけれど、戦場を思い起こさせる何かが、日常のあちこちに散らばっている。
 赤が近付く。世界の全てが赤くなる。
 多分、ギロロの世界は緑に染まっていることだろう。
 柔らかい、僅かに濡れた唇を寄せ合う。ただ触れるだけの、酷く幼稚な口付けだ。数秒もしないうちに、どちらともなく離れた。
 ギロロの瞳は、もうケロロを映してはいない。その眇めた黒目は罪悪感に満ちていて、その向こうに誰を見ているのかを、ケロロは容易に想像できた。

「……すまん」

 低く紡がれた謝罪。ケロロは笑う。

「ま、雨のせいってことで」
「……そうか」
「……そうであります」

 いわゆる、吊橋効果。気にするほどのことでもない。子供の頃にも冗談でキスをしたことくらい、何度かあったではないか。
 ケロロは無理矢理ギロロから視線をずらし、逃げるようにテントの幕に手をかけた。

「濡れるぞ」
「少しの距離でありますから」

 振り向かないまま、ケロロは雨の中に飛び出した。
 湿った唇の熱は、すぐに雨に掻き消された。










 悪戯心など起こさなければ良かったのだ。
 素直におとなしく、待っていればよかったのだ。
 そうしたら、こんな。
 こんな惨めにならずにすんだのに。

 クルルは力任せに手近のコードを引き抜いた。機械音が消える。何も聞こえない。

 雨の音すら、ここへは届かない。










 ケロロはわざわざ玄関に回って日向家に逃げ込んだ。たった十数メートルを走る間に、身体はすっかりずぶ濡れになった。
 ドアを開けると、薄暗い廊下にはクルルが蹲っていた。

「……どしたの」

 我ながら白々しいと思いながら、ケロロは平静を装って微笑みかける。
 クルルはちらとこちらを一瞥する。少し笑ったようだった。

「アンタこそ、なにずぶ濡れになってんだ」

 言われて、ケロロは肩をすくめる。
 クルルは億劫そうに立ち上がり、ケロロの目前まで歩み寄った。瓶底眼鏡の奥は、相変わらず見透かせない。
 クルルの手がケロロの頬を包む。ケロロは溜息を吐いて、それを制した。クルルの口端が苛立ちに歪む。

「洗濯物はもう取り込んだだろ」
「ここは玄関先であります」
「だから?」
「みんなが帰ってきたらどうすんの。だからラボに……クルル!」
「うるせぇ」

 黙れとばかりに、クルルはケロロの唇を塞ぐ。貪るように舌を絡めとられ、呼吸が奪われていく。

「……っは、クルッ……!」

 酸欠で目がかすむ頃、ようやく唇が開放される。同時に壁に押し付けられ、そのままクルルの腕が背中に回された。きつく抱きしめられたまま、ケロロは荒い息を繰り返す。

「……あのさ、クルル……」
「アンタは」

 見てた? と、訊こうとした言葉は遮られ、ケロロは自分に覆いかぶさるクルルの黄色い肩に視線を馳せる。

「アンタは、俺の恋人だよな」

 やはり見ていたらしい。
 日向家は至る所に隠しカメラが設えられている。それはギロロのテントも例外ではない。
 クルルの声は、普段の余裕を微塵も感じないほどに掠れ、震えている。まるでそれは、駄々をこねる子供の声にも聞こえた。
 ケロロはそっとクルルの背に手を回す。

「アンタにキスしていいのは、俺だけだろう?」
「……うん」
「アンタに触れていいのは、俺だけだろう?」
「そうだよ」
「アンタが好きだ」
「……うん、クルルが好きだよ」

 それは嘘じゃない。
 その『好き』は、決して大衆的な意味ではない。特別な『好き』だ。
 ケロロに触れていいのはクルルだけで、クルルに触れていいのもケロロだけなのに。
 その、はずなのに。
 ケロロは震えるクルルの背を優しく撫ぜる。泣く子供をあやすように、酷く母性的に。
 それはクルルが望むものではないと知っていながらも、ケロロにはそうして彼の背を撫でることしか出来なかった。
 雨はいつしか止んだようで、薄暗かった廊下に僅かに光が差す。そろそろ夏美たちが帰ってくる頃だ。
 クルルが覚足なく立ち上がる。逆光で顔を見ることは出来ない。ケロロは壁に凭れたまま、クルルの背を見つめる。

「……好きであります、クルル」
「……」

 クルルは答えなかった。そのままラボへ直通のエレベーターで姿を消してしまった。
 一人廊下に残されたケロロは、小さく笑う。額に手をやり一頻り笑って、天井を仰いだ。

「……っは……」

 笑いと共に、一粒だけ涙が落ちた。
 確かに、これは愛だったのに。どうして恋まで堕ちてくれなかったのだろう。
 そうしたら、きっと。

 ケロロは立ち上がり、ふらふらと歩き出す。
 風呂を沸かさなくては。早くしないと、夏美たちが帰ってきてしまう。それが終わったら、洗濯物を畳まなくては。まだまだ仕事はたくさんある。
 余計な事を考える暇もない。
 ……考えなくてもいい。

「明日は晴れるでありますかなぁ」

 わざと大きな声で呟いて、ケロロは日常に戻った。





end.





『とびだせケロン!』で発行したコピー本より再録です。
ぶっちゃけ30部くらいしか発行してないので、殆ど初出に近いような気がします。

斎藤はとにかくこの三匹の三角関係が好きで仕方がないようですよ。
ちなみに今回はケロン体です。明記はないけど。でもギロロの目を黒で表現してますんで。
ケロン体の方が、擬人化よりも遙かにエロい空気を醸し出せると思いませんか?
ええ、腐ってます。